今更聞けない?!モード界の皇帝『Karl Lagerfeld』について。

Fashion〜ファッション〜

今回は2019年に亡くなり、ファッション業界を震撼したモード界の皇帝と呼ばれた伝説的デザイナー『Karl Lagerfeld(カールラガー・フェルド)』について紹介します。

Karl Lagerfeldについて

karl lagerfeld

名前 karl Lagerfeld(カール・ラガーフェルド)

出身地 ドイツ ハンブルク

生年月日 1933年 9月10日

死没 2019年 2月19日(85歳没)

Karl Lagerfeld 生立ち

karl lagerfeld

 

伝記作家のアリシア・ドレークによると、彼は1933年9月10日ドイツ北部のハンブルク・ブランケンゼーゼ地区に無糖練乳の生産、輸入会社であるホーホヴァルト社の経営者である父オットー・ラガーフェルド、下着のセールス会社に勤める母エリザベート・バーマンの間に生まれました。
母方の祖母であるカール・バーマンがカトリック系政党の中央党の地元政治家であったことから復古カトリック教会を信仰する家庭で育ちました。

ドイツ ハンブルク

ですが、1933年は彼自身否定しています。世界大戦中の爆撃により出生記録がなくなり実際の年齢はだれにもわからないそうです。

ブランケンゼーゼ地区は、絵本のような可愛いヴィラが並ぶ高級住宅街です。カールは絵を描くのが好きな子供で、美術館の絵を見るのも大好きでした。あるとき美術館で、フランス絵画という魔法に出会います。フランス絵画と言えば、マネ・モネ・ルノアール・ゴーギャンなど輝くような傑作ぞろいです。そこからカールの感性が生まれたのでしょうか。

カールはフランス絵画をきっかけに、フランスの魅力に憑りつかれてしまいました。学校の勉強とは別に、屋根裏部屋にこもってフランス語を勉強するなど、フランスのことで頭がいっぱいでした。

1950年、カールはハンブルクで行われたディオールのショーを見て、フランス行きを決意しました。
本当はマンガ家になりたいと考えていましたが、ファッションデザイナーの方が生計を立てやすいと考えたそうです。デザイナーで生計を立てるというカールの考えを、家族が応援してくれました。

1950年代の初め、カールの母親は、カールと共にフランスに移住します。パリのファッションデザイナー養成学校パリクチュール組合学校に、カールを入学させるためです。

17歳になるころにファッションデザイナー養成校「パリ・クチュール組合学校」にてファッションを学びます。この時の同級生に『モードの帝王』イヴ・サンローラン、文化服装学院名誉学院長の小池千枝がいます。

カールと同じくめざましい成長をとげて、在学中からChristian・Dior(クリスチャン・ディロール)に認められます。この二人は大人になってからもずっと、喜怒哀楽を共有する友達になりました。

イブ・サンローンとは20年来を共にした親友と語っています。

キャリアについて

Balmainのアシスタントとしてキャリアスタート

balmain

16歳の時にカールラガーフェルドに転機が訪れます。1954年 IWS(国際羊毛事務局)のコンクールのコート部門で優勝。
17歳という若さで、コンクールの主催者である、ピエール・バルマンにその才能を認められキャリアをスタートします

 

ジャン・パトゥクリエイティブディレクター就任

ジャンパトゥ

1958年カールが当時20歳の時ジャン・パトゥのクリエイティブディレクターに就任しました。
5年間にわたりオートクチュールを発表し続けました。
カール曰く、ジャンパトゥにて生地や技術的な事を学んだといいます。

イタリアへ

オートクチュールのあり方に疑問を感じ、イタリアに渡ってフィレンツェで建築や絵画、彫刻などを学びます。イタリアからパリに戻ってきた1963年、カールはティツィアーニというブランドを立ち上げた年にアメリカ・テキサス州出身のエヴァン・リチャ―ズによって、イタリア・ローマで創業された店でデザインの仕事を始めました。そこではまずオートクチュールを見直し、さらに既製服にも製造が拡大されました。

Chloe(クロエ)のデザイナー就任

chloe karl lagerfeld

1960年初頭パリへ戻ったカールラガーフェルドはフリーデザイナーとして活動を開始。フリーとして初めて関わったブランドがChloé(クロエ)でした。

クロエでの功績が認められたカールラガーフェルドは、クロエのヘッドデザイナーに就任します。

Fendiのデザイナー就任

fedi karllagerferd フェンディ カールラガーフェルド

1964年にフェンディの主任デザイナーに就任。若干27歳でイタリアの老舗ブランドの舵取りを任されます。

それまでの伝統的な形の毛皮のコートを一新し、ミリタリーなど新鮮なスタイルを提案しブランドの刷新を図り、現在まで使われるフェンディのFを2つ組み合わせたロゴもデザインしました。

カールラガーフェルドの人生で最も長く関わったブランドがフェンディです。

CHANELのデザイナー就任

chanel karllagerfeld シャネル カールラガーフェルド

1983年CHANELのデザイナーに就任します。
創業者「ココ・シャネル」が1971年に亡くなって以降ブランドとしてのシャネルは低迷していました。「シャネルは墓に戻る」とまで言われ、経営状態を立て直すためにカールにデザイナー職のオファーが届きました。その当時、低迷したブランドを再興するという考えは一般的ではなく、カールは多くの友人からその契約を結ぶべきではないと忠告されたそうです。

結局シャネルからの2度目のラブコールをうけたカールは、1983年のオートクチュール、1984年からはプレタポルテ(既製服)とデザインを開始します。結果としてコレクションは高い評価を得て、なおかつ販売・話題性も回復しました。
そこから、カールが亡くなる2019年までCHANELを率いました。

キングオブシルバーと言われる所以

karllagerfeld chromeherts カールラガーフェルド クロムハーツ

カールは貴金属については、ゴールドやプラチナよりも、シルバーが好みだそうです。クロムハーツが大好きで、「男性が身につけて良いジュエリーはクロムハーツくらい」と、絶賛し愛用していました。「クロムハーツは全部持ってる」という豪語が有名です。

カールラガーフェルドのクロムハーツへのこだわりは、ファッションデザイナーとして共演したローリーリンスタークと出会い、彼女の革のズボンに身をかがめて、「karl」と書かれたタータン文字を彼女に見せたときに始まりました。

大きな襟のシャツにタイ。その上からクロムハーツのロングネックレスをあわせるのが、彼の定番スタイルですがかなりかっこいいです。推定ですが70cmくらいのチェーンにクリップをトップとして合わせていますね。なんとも独創的な着こなしで、いわゆるジャラ付けというものです。彼がこのジャラ付けという言葉を作ったのではないでしょうか。

最後に

今回は『Karl LagerFeld(カール・ラガーフェルド)』について紹介させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。
他にも多くの格言を残しているので、気になる方はチェックしてみましょう。