ヘヴン/川上未映子
作品概要
★★★★★
・出版社 講談社
・総ページ数 320ページ
・発売日 2012/05/15
・読書期間 3日
川上美映子
1976年8月29日、大阪府生まれ。2007年、デビュー小説『わたくし率イン歯ー、または世界』(講談社文庫)が第137回芥川賞候補に。同年、第1回早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞受賞。2008年、『乳と卵』(文春文庫)で第138回芥川賞を受賞。2009年、詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(青土社)で第14回中原中也賞受賞。2010年、『ヘヴン』で平成21年度芸術選奨文部科学大臣新人賞と第20回紫式部文学賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ヘヴン
<わたしたちは仲間です> ――十四歳のある日、同級生からの苛めに耐える <僕> は、差出人不明の手紙を受け取る。苛められる者同士が育んだ密やかで無垢な関係はしかし、奇妙に変容していく。葛藤の末に選んだ世界で、僕が見たものとは。善悪や強弱といった価値観の根源を問い、圧倒的な反響を得た著者の新境地。
今回は川上美映子さんの『ヘヴン』を読んだので自分なりの解釈にて解説していきたいと思います。この作品は様々な解釈があり、個々の受け取り方が大きく違うような気がします。
この本自体320ページとページ数はあまり多くないのですが、内容がずっしりと重く、途中で嫌な気持ちになり読むのをやめてしまいそうになったこともありました。
また各登場人物の背景描写が極端に少なく、主人公の本名でさえ書かれていない。
その分の心理描写や各登場人物の心の動きが目に見えるように取れて怖くも苦しくもなりました。
あらすじ
僕
斜視の目を持つ14歳の中学生。二ノ宮を中心としたクラスメイトからいじめられている。
コジマ
「僕」と同じクラスの女子。クラスの女子にいじめられている。僕に手紙を送るようになる。
二ノ宮(にのみや)
「僕」と同じクラスの男子。僕をいじめるグループの主格。
百瀬(ももせ)
「僕」と同じクラスの男子。二ノ宮と行動を共にし、いじめにも加担しているが、いつも遠巻きに見ていて何事にも無関心。
手紙
主人公の僕は、”ロンパリ”と呼ばれ、クラスメイトからいじめを受けています。
ロンパリとは、一方の目でロンドンを見つつ、もう一方の目でパリを見ているさまに喩えた斜視の目の事である。
4月のある日、僕は筆箱の中に「わたしたちは仲間です」と書かれた手紙が筆箱に入っているのを見つけました。
それから短い何度も手紙が届くようになります。しかし僕は”罠”に違いないと何もアクションは起こしません。
僕は5月に入ってすぐ「会いたいです」と書かれた手紙を受け取りました。
指定された場所に行ってみると、そこには同じクラスのコジマという少女がいました。コジマは、不潔なことを理由にクラスの女子からいじめられています。コジマは、「友達になってほしいの」と僕に言いました。
コジマと僕はそれから”秘密”の手紙を何度か交わし密会もします。
ある日、コジマは僕に打ち明けます。先日少しクラスで話題になった、カーテンの端っこや箒の端っこなど校内のものがほんの少し切り込みが入っているのは私がやっていた、と。
「わたしはーなんて言ったらいいのかな、だいたいいつも不安でしょうがないわけ、びくびくしてるの。家でも、学校でも。でもね、なんかちょっとでもいいことがあったりするじゃない、たとえば君とこうやって話してるときや手紙を書いてるときね。それはわたしにとってとてもいいことなの。それでちょっとだけ安心してるのね。この安心は、わたしにとってうれしいことなの。でも、そのふだん感じてる不安もこの安心も、やっぱり自然なことなんかじゃなくて、どっちもとくべつなことなんだって思ってたいんだと思うの、たぶん。…だって安心できる時間なんてほんの少しだし、それに人生のほとんどが不安でできてるからってそれがわたしのふつうってことにはしたくないじゃない。だから不安でもない、安心でもない、そのどっちでもない部分がわたしにはちゃんとあって、そこがわたしの標準だってことにしたいだけなのかも」と言ってコジマは唇をあわせた。
いじめは不安であることに違いありませんが、それは特別な時間であると認識しています。しかし、最終的な拠り所が獲得できず、自身の中に標準を見出しています。
ヘヴン
夏休みが近づいたあるとき、コジマは「君をヘヴンに連れて行きたい」と言いました。
夏休みの初日、僕はコジマに連れられて「ヘヴン」に向かいます。向かった先は美術館でした。「ヘヴンっていうのはこの美術館のことなんだね」と僕が言うと、コジマは「ヘヴンは絵のことなの」と言いました。
ヘヴンを見る前に、僕とコジマは外で休憩をします。しかしベンチに座ったコジマは、「色々なことがあるの」と言って泣き出してしまいました。
僕は泣きだしたコジマに「僕の髪を切ってもいいよ。」と話します。
僕を拠り所にしてもいい、と提案しています。
結局、その日は美術館に戻りませんでした。
それから1か月後、僕はコジマと会いました。そこで、コジマは自身の家庭の話を始めます。
コジマの父親は、工場の経営に失敗して多額の借金を背負っていました。そのため、当時のコジマは貧しい暮らしをしていました。
しかし、両親の離婚・母親の再婚を機に状況は変わりました。母親はお金持ちの男性と結婚し、今は比較的裕福な生活をしています。しかし、コジマは母親の相手のことを好きになれません。
そこで、コジマは貧乏な父親を忘れないように、わざと汚れたくつを履いて垢だらけの服を着るようになったのでした。それが原因でコジマはいじめを受けています。
しかし、コジマは「このいじめにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えた先にはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどり着けなかったような場所やできごとが待ってるのよ」と言いました。加えて、コジマは「君の目がとてもすき」と僕に告げました。
「わたしだって最初はすごく悔しかったわよ。すごく。だってわたしがこんなふうに汚くしてるのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。これはわたしにしかわからない大事なしるしなんだもの。お父さんがどこかではいてるどろどろの靴を、わたしもここではいてるっていうしるしなのよ。汚さにもちゃんとした、ちゃんとした意味があるのよ。」
「君は斜視で、そのせいでわたしとおなじようにまわりからひどい目に遭っていてつらいことだけれど、でもそれがいまの君っていう人をつくっているってこともたしかだと思うの。そしてわたしはわたしのしるしを守るために、おなじようにひどい目に遭ってる。どちらかが欠けても、いまの状態はなかったと思うんだよ。」
コジマのいじめの原因と僕のいじめの原因は全く別物です。
コジマは自身の信じるしるしの為に、いじめを受けていますが、根底に強さと信仰があります。
僕はそんなコジマの”信仰”を受け入れ、強く温かくなった気持ちになります。
コジマと百瀬
夏休み明けに学校に行った僕は、二ノ宮たちにリンチされてしまいました。
二ノ宮が考案した人間サッカーです。
血だらけになっていたところにコジマがやってきて、後始末を手伝ってくれます。コジマは、「わたしたちがやられてもやりかえさないのは、受け入れているから」と僕に言いました。
そして、「クラスメイトは君の斜視や、君がいじめを受け入れて何をされても学校に来ることを怖がっている」と付け加えます。コジマは、また「君の目がすき」と言いました。
秋が深まったころ、リンチで受けたケガのために病院へ行った僕は、たまたま百瀬と会います。僕は、百瀬に「話がある」と言いました。僕は、「どうして君たちは、あんな無意味なこと(僕にたいするいじめのこと)ができるのか」と百瀬に問います。
百瀬は、「無意味だからやる」と答えました。また、僕が斜視であることと僕がいじめられていることは関係がなく、「たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなのがあって、たまたまそれが一致しただけ」と言いました。
病院に戻った僕は、医師に斜視のことを聞かれました。僕は、小さいころに手術したけれど元に戻ってしまったと伝えます。僕は、もう斜視は一生治らないのだと思っていました。
しかし、医師は斜視の手術は医師になりたての人が行う簡単なもので、1万5千円でできると僕に言います。
後日、コジマと会った僕は、コジマに斜視の手術のことを話しました。それを聞いたコジマは取り乱し、「君は、そうしたいなら、目を治して、あの連中に従えばいいと思う」と言って去って行きました。
その後、僕はなんどもコジマに手紙を送り、ようやく会えることになりました。しかし、そこには二ノ宮やコジマをいじめている女子もやってきます。二ノ宮たちは、僕にコジマの服を脱がせるよう指示しました。
百瀬の「なぜ反発しないんだ?」という言葉を思い出した僕は、石を持って二ノ宮に殴りかかろうとします。そのとき、コジマは自分で服を脱いで二ノ宮に向かって手を伸ばし、高らかに笑いました。
「こんなことに本当に意味があるの?」と僕がコジマに問いかけると、僕の頭の中でコジマは「もちろんだよ。わたしたちは従ってるんじゃないの。受け入れてるんだよ」と言いました。
それから2日後、僕の家にはクラスメイトの親や教師がやってきました。僕は、母親と向かい合って話をします。そこで、僕は母親に斜視の手術の話をしました。
よく晴れた日の午後、僕は斜視の手術をしに病院に行きました。次の日、病院から帰る途中の並木道で立ち止まります。そこは、いつも学校に行くときに使っている道です。
その真ん中で眼帯を外した僕は、金色に輝く木々の美しさに圧倒されました。そして、僕は並木道の果てに白く光る向こう側を見たのでした。
自分的解釈
正直、ヘヴンはとても難しかったです。答えはなく、私が感じ取れた内容での自分的解釈をお伝えします。
私はこの小説は”いじめ”の問題提起だけではなく、今私たちが生きている社会そのものの仕組みのようなものを感じました。
僕の斜視という得体の知れないものに対する周囲の拒絶反応
コジマは終始、君の目が好きだと話します。それは”しるし”であると。
しるしとは信仰でいう対象物のような物です。自身の中に信仰を見出したコジマは僕の中にある信仰を示唆します。
コジマの宗教的感覚
コジマは僕に自身の”汚さ”の奥にある大切な”しるし”を話ます。
僕はコジマの”汚さ”の意味を空想でクラスメイトに話そうとするシーンが描かれています。
現実社会でも、宗教というものは知らなければ知らないほど拒絶反応が強く理解されるのに多くの時間を要すものです。
対照的なコジマと百瀬
百瀬は僕に「事物には意味がなく、いじめもしたいからしている。」と言う。そして「自分の身は自分で守れ、それが出来ないやつはいじめらける」とも言っている。
一見すると、それは真実の一端をついているようにも思う。
百瀬は理性のみで割り切ろうとしているから、一面的には正しく見える。
だけどそれは理性で割り切れない”人の感情”をとらえない考えである。
社会システムはほとんど”人の感情”よりも”合理的思考”で構成されている。
コジマの信じたものは最後に報われることはない。
僕
僕はコジマの信仰と百瀬の合理的考えの間で大きく揺らいでいる。
僕はコジマが”しるし”だと言ってくれた信仰を捨て、最終的に斜視を手術する。
すると、平面にしか見えなかった世界、つまり”信仰”と”合理的考え”しかなかった世界が立体的に見える。
勝ち取った”合理的考え”の世界には先がある。その先を自身で変えていける未来を掴みます。
コジマと僕
最後にコジマと僕についてです。
最初はただのクラスメイトであったコジマ。
しかし会う回数を重ねるごとに僕はコジマの存在を意識しはじめます。
中盤では僕の自己処理の性的描写があります。しかし僕は絶対にコジマを思い出しません。
会う回数が減るたびコジマを思い出していき、
最後の自己処理ではコジマを思い出します。
しかし、最後の時にコジマの顔ではなく、百瀬の妹である綺麗な女の子の顔に変化していきます。
僕は完全にコジマを受け入れることが出来ずに終わっています。
うーん。これは様々に解釈できますので、ぜひ意見お聞かせください。
感想
とても難しかったです。一度しか読んでいないため、理解が足りないのではと思います。
重い内容ではありますが、どこか不思議な感覚もあり、とても抽象的でした。
社会の仕組みであると話しましたが、いじめの描写がなんとも酷く辛くリアルでした。