パブロ・ピカソの生涯 なぜピカソは評価されている?”Pablo Picasso” 【異次元の天才】

パブロピカソ_picassoArt〜アート〜

皆さん画家、素描家であり彫刻家の”Pablo Picasso”(“パブロ・ピカソ)はもちろん知っていますよね。

芸術に興味がない人でも名前が知られているほど彼は評価されています。

では一体なぜ彼がここまで有名なのか?

何がすごいのか?と思った方はたくさんいると思います。

そんな彼の生い立ちから何がすごいのか、探っていきたいと思います。

 

Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)

パブロピカソ_picasso

名前          Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)

出身          スペイン アンダルシア州 マガラ

生年月日  1881/10/25/ – 1973/4/8

 

幼少期

ピカソ_幼少期

左がパブロ・ピカソ 右は妹

ピカソは1881年10月25日、スペインのアンダルシア州マラガで、画家の父ホセ・ルイス・イ・ブラスコと母マリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれました。

キリスト教徒の家に生まれカトリックの洗礼を受けていましたがのちに無神論者となります。

7歳の時からピカソは、画家であり美術科の教員であった父親からドローイングなどの技術の訓練を受けました。

 

ピカソ_デッサン

こちらはピカソが9歳の時デッサンしたもの(1890年)。

 

 

ピカソ_天才

こちらは12歳の時に描かれたもの(1893年)。人間の筋肉のつき方をしっかり捉えていますよね。

 

 

ピカソ_天才ピカソ_天才

こちらは13歳の時に描かれたもの。(1895年)

ピカソの絵は1894年から急激にクオリティが向上しており、1894年から本格的に画家を志しはじめていることがわかると分析されています。

 

ピカソが13歳の時、父は彼の絵を見て技術的に追い抜かれたと絵を描くことを辞めたという。

父は彼の才能に目をつけピカソが高度なクラスの入学試験が受験できるよう美術大学の職員を強く説得した。

入学試験は本来は1ヶ月かかる課題だった。

しかしピカソはたった1週間で完璧にしあげてしまいます。笑

わずか13歳で上級の入学試験を突破しました。

 

ピカソ_天才

ピカソ

こちらは14歳の時に美術学校で描いたもの(1896年)。

14歳にもかかわらず既に高度な技術を持ち合わせていた天才なのです。才能爆発

 

ピカソ_天才

この絵は1897年にはマドリードの美術展で佳作を受賞します。

1900年には芸術の都パリを訪れ、前衛的な芸術を吸収しその後パリとバルセロナを行き来します。

 

”青の時代”:1901~1904年

ピカソが19歳の時、親友のカサヘマスが失恋により自殺しました

これに大きなショックを受けたピカソは苦悩し鬱屈した精神を表現するように青を基調とした作品を制作しています。これを”青の時代”と呼びます。

絵に当時のピカソの感情が見えてきます。

色の厳格な使い方やときに憂鬱で沈んだ主題では、売春婦と乞食が頻繁にモチーフとなっている。

 

“La Vie”(人生):1903年

ピカソ_青の時代

この作品は青の時代の代表作といえるでしょう。

左側に描かれている裸で寄り添っている男女は自殺した親友のカサヘマスと恋人のジェルメールである。

右側に描かれているのは母子像で、母はカサヘマスを見つめています。

カサヘマスは赤ん坊を指差しており、恋人ジェルメールは下を向いている。

二人の男女と母子像の間には二枚の絵があり、上は抱き合う男女、下には絶望を感じる人物。

カサヘマスの自殺の原因は、性的不能と言われており、母の無表情でありながらも慈愛に満ちた視線はカサヘマスに向けられ、性的不能であることには振り向かないジェルメールは視線を下に落としているのだ。

 

ピカソ_青の時代

“The Blue Room”(青い部屋):1901年

 

ピカソ_青の時代

“The Blind Man’s Meal”(盲人の食事):1903年

 

ピカソ_青の時代

“La Celestina”(ラ・セレスティーナ):1903年

 

”ばら色の時代”:1904~1906年

20代半ばに差し掛かるとピカソは青の時代からは想像もできないエネルギーに溢れた明るい絵を多く描くようになります。

理由は”Fernande Olivier“(フェルナンド・オリビエ)と知り合ったこと。

交際を始めて作品の色調は暖かで明るくなっていきます。

この時代を”ばら色の時代”と言います。

オリビエは教養のある女性で、ピカソにフランス語を教えたり、精神的な安定を与えてひたすら絵を描くようにピカソを仕向けました。

“Garçonala la Pipe”(パイプを持つ少年):1905年

ピカソ_ばら色の時代

これは”ばら色の時代”の代表作の1つで、描かれているのは左手にパイプを持ったパリの少年で、頭には花輪を付けている。

この絵を描きはじめた頃、ピカソは約1ヶ月ほど制作を一時中断しており、その間にピカソは少年の頭に花輪を描くことを考えたそうです。

青の時代とは全く違う色使いと作風が感じ取ることができます。

この絵は最高額1億400万ドルで取引されました。

 

ピカソ_ばら色の時代

“The Girl on the ball”(玉乗りの曲芸師):1905年

 

ピカソ_ばら色の時代

ガートル―ド・スタインの肖像:1906年

ピカソの才能を見抜いた支援者のアメリカ女作家の肖像画です。

この作品はどこか顔が仮面のように描かれています。

特に目はイベリア古代彫刻にインスピレーションを受けてアーモンド形で描かれています。

様々なものからインスピレーションを受け新しい表現に結び付けていくのが”ピカソ”です。

 

”アフリカ彫刻の時代”:1907~1909年

ピカソと言えば”キュビスム”が有名な画家です。

“キュビズム”とは被写体を忠実に描くのではなく、いくつもの角度から見た形を描写する技法。

ピカソはそんな”キュビスム”はアフリカ彫刻からインスピレーションされています。

ピカソ_キュビズム

“Les Demoiselles d’Avignon”(アビニヨンの娘たち):1907年

そんなアフリカ彫刻からインスピレーションされて初めて描いた作品は”アビニヨンの娘たち”という5人の売春婦の絵でした。

ピカソ_キュビズム

娼婦宿のあるスペインのバルセロナ、アビニヨー通りから命名されたこの大作は、娼窟を描いたものです。左側の女性の横顔は古代エジプト彫刻、中央の2人の顔には、イベリア彫刻(古代スペイン彫刻)、また、グロテスクに歪曲された右の2人の顔には、アフリカ彫刻の影響が見え隠れしています。

また右手前の女性は背を向けているにもかかわらず、顔だけがこちら側をにらんでいる。写実的な現実感ではなく、絵画ならではの新しい現実感を得るために、事物の形を解体したうえで、画面のなかで複数の視点から再構成する”キュビスム”の起点とされる作品です。

さらには、遠近法や明暗法に基づく伝統的な絵画の約束事を根本からくつがえした点で、現代絵画の出発点ともいわれる。

彼は本当に親しい数人の友人にだけこの絵を見せましたが、彼らの反応は決して良くありませんでした。ピカソが狂ったとも言われたそうです。

 

 

”キュビズム”

そんなアフリカ彫刻の時代を経てジョルジュ・ブラックと共に”キュビスム”という絵画様式を生み出したことで有名です。

ピカソ_キュビズム

キュビスムは、人や自然の立体的な風景を全て複数の視点から見た幾何学的な形で捉え、平面にそのまま表す様式です。

サイコロのある一つの面を見るときには、その反対側の面を見ることはできないですよね?

しかしキュビスムでは見る側の視点を超えた全ての面を同時に描くことで物質や人間の本質に迫ろうとしたものです。

 

分析的キュビズム :1909~1912年

分析的キュビズム

フェルナンドの肖像:1909年

 

分析的キュビズム

“Girl with a mandolin”(マンドリンを持つ少女):1910年

分析的キュビズム はある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画です。

ポール・セザンヌの言葉、“自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する”をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を創造しました。

 

総合的キュビズム :1912~1918年

 

解体が進み、キュビズムは何が描かれているのか判別がつきにくくなっていきました。

総合的キュビズムは、文字、新聞の切り抜きや木目を印刷した壁紙、額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的で身近な世界にあるものが絵画に導入されました。

そこで再び現実との接点を得る方法として、印刷物などを画面に張り付ける”パピエ・コレ”というコラージュ技法が取り入れられ、平面的ではあるが層化した空間が作り出されました。

抑えられた色彩表現から色彩が復活して洗練された表現になっていきました。

総合的キュビズム

“Bottle of Marc de Bourgogne, Wineglass, and Newspaper”(ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙):1913年

 

 

”新古典主義の時代”:1918~1925年

ピカソ_新古典主義

Mother and child”(母と子):1921年

 

1917年、ジャン・コクトーの依頼で「ロシア・バレエ団」の美術、衣装を手掛けます。

その公演に同行しパリ、バルセロナ、ローマなどを回りそこで出会ったバレリーナ”オルガ・コクローヴァ”と翌年結婚。

オルガはロシアの貴族出身であり、ピカソも上流階級との交流が増え、彼の作品は飛躍的に販路が広がっていきます。

そして生まれた子供とオルガをモデルに”母と子”を描きましたが、ピカソは古代ローマやルネサンスなどの古典様式に大変感銘を受け、自身の作品に古典様式を導入しはじめしっとりした量感を持たせた新古典主義のスタイルに変更します。

 

ピカソ_新古典主義

“Two women running on the beach”(海辺を走る2人の女):1922年

 

”シュルレアリスムの時代”:1925~1936年

シュルレアリスム(超現実主義)とは1924年に”André Breton”(アンドレ・ブルドン)らによって始められた芸術運動で、人間の奥底に隠された無意識や夢の世界に芸術表現の領域を拡げました。

ピカソは超現実主義者たちに刺激を受け、人物を現実には存在しないであろう非現実的な形態に変えて描くようになりました。想像力が駆使された超現実主義的な手法でピカソ独自の世界が展開された時代を”シュルレアリスムの時代”と呼びます。

ピカソ_シュルレアリスム

“The three dancer”(三人のダンサー):1925年

オルガに対する不満が大きく膨らんだ時に描かれたと言われている作品。

ピカソの不安定な精神状態が反映されていると言われています。

新古典主義の作風がガラッと変わります。

左のダンサーは怪物のように顔が変形され、中央で踊るダンサーは、十字架にかけられたようなポーズをしています。

右のダンサーは、死亡した友人のシルエットが描かれ、二重の人体からなっています。

形や空間の共有化、パピエ・コレを思わせる壁の模様など、キュビスムの表現法が生かされています。

感情によってこうも絵のタッチをガラッと変えられるのも彼の才能と魅力と言えるでしょう。

ピカソ_シュルレアリスム

1929年

 

”ゲルニカ”:1937年

ピカソ_ゲルニカ

1937年、ナチスは、スペインの小都市ゲルニカを無差別爆撃して数千人の市民を殺害しました。

ピカソはその悲しみや怒り恐怖の感情をこの作品”ゲルニカ”として描き表現しました。

画面右端の炎に包まれている女性、殺された子どもを抱いて絶叫している左端の女性、地面をはうように逃げる女性、それぞれの姿を大胆に変形して動作や表情を強調することにより感情に切迫感をもたせている。

 

ゲルニカ後のピカソ

ピカソ_泣く女

“weeping woman”(泣く女):1937年

1936年、ピカソは、女写真家の”Dora Maar”(ドラ・マール)と知り合います。

交際がスタートしたが彼女はよくなく女性であったこともあり”ゲルニカ”の作品の中から泣く女を独立させ、彼女をモデルとして”泣く女”を描きました。

ここでもキュビズムの技法を用いて彼女の本質を絵に表しながらも写実的絵画よりも悲しさが伝わってくるような気もします。

ピカソ

“Dora Maar”(ドラ・マール)の肖像画:1937年

愛人ドラマールの持つ華やかな雰囲気が原色と黒の組み合わせによって上手く描かれています。

まっすぐ正面を凝視した大きな目、口元、整った顔の線が彼女が美しかったことを表しています。

 

山羊の頭骨を持つ帽子の女

山羊の頭骨を持つ帽子の女:1939年

人間の顔が怒りの表情に満ちていて第二次世界大戦勃発直前の社会状況に対するピカソの怒りが反映されています。

帽子や服が暗い色に塗られているので、頭蓋骨の赤色が引き立ち、恐ろしい怒りの顔と頭蓋骨の組み合わせによって暴力的なものを感じます。

時代背景が表れています。

 

生涯で描き残した作品数

彼は91歳で亡くなるまで時代背景、愛人、感情などでまるで全く違う人が書いたような絵画を残してきています。

彼が生涯で書き残した作品数は油絵だけで1万3千点全部でなんと

約14万7800点です。

 

11歳から作品を作り始めたとしても91歳まで1日5作品計算です。

この作品数は最も生涯で作品を残したギネスにも記録されています。

 

 

まとめ

彼は最も生涯で作品を残した画家であり最も多彩な絵画をこの世に残しアートに新しいことを創造してきました。

ここで全ての作品の紹介もしたかったのですが不可能なほど名作だらけです。

それは彼が生きてきた人生と時代背景が彼の絵によって浮かび上がるという才能があるからです。

理解できない絵だと言われても描きたいものを描いてきた彼が今我々のアートという考え方に大きな影響を与えていることは間違いありません。

また彼は生前に成功した画家でもあることが何よりの才能です。

彼の絵を知ることは彼を知ることとなり今もなお芸術として生き続けていることは間違いありません。