あなたは画家”藤田嗣治”を知っていますか?
日本人が芸術追求し世界に羽ばたいた偉人です。
日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の色使いで絶賛を浴びた”エコール・ド・パリ”(マルク・シャガールやピカソなどが代表的な芸術家)の代表的な唯一の日本人の画家の一人です。
そんな彼の歴史、作品を読み解いていこうと思います。
藤田嗣治
名前 藤田嗣治(ふじた つぐはる)
出身 東京都牛込区小川町(現在の新宿区)
生年月日 1886/11/27 – 1968/1/29
幼少期から学生時代
藤田は幼少期から絵を描き始めます。
4歳のときにはパリ万国博覧会に日本の中学生代表として水彩画を出品しました。
その時から既に才能を発揮していますね。
中学生の時には既に画家としてフランスへ留学したいという思いがありました。
医者か軍人のどちらかになることを希望する父の意向を知り、画家になりたいという気持ちを同居していた父に手紙で伝えたという。
すると父は返書を彼に手渡し、その中には十円札五枚が入っていました。
そのお金で油絵具一式を買い油絵を描きはじめました。(感動)
中学校に通いながら暁星学校夜間部でフランス語を学び、本多錦吉郎の画塾”彰技堂”に通います。
そこで出会った森鴎外さんに勧められ1905年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術部)に入学します。
同級生には漫画家”岡本一平”や水墨画家”近藤浩一路”がいました。
藤田はなんと卒業成績は30人中の16番目。
藤田の東京美術学校の卒業制作(自画像)
卒業制作で作った藤田の作品を当時の東京美術学校の教授であった”黒田清輝”は悪い例の作品だと評価しました。
日本の芸術は当時、”黒田清輝”らのフランス留学からの帰国もあり急速な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評であった。
卒業制作の自画像も”黒田清輝”が嫌う黒を多用しており何か挑発的な表情にも見えます。
1912年、写生旅行の木更津海岸で知り合った、当時東金高等女学校教師の”鴇田登美子”と二年の恋愛を経て結婚。
しかし翌年の1913年、結婚およそ半年後の6月18日、新妻を残して単身パリへ行くことを決意。
最初の結婚は1年余りで破綻することとなりました。
日本からパリへ
1913年、渡仏後にパリのモンパルナスに居住を構えます。
当時のモンパルナスは町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていました。
藤田は、隣の部屋に住んでいたイタリア出身の画家、彫刻家の”Amedeo Clemente Modigliani“(アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ)とロシア出身の画家”Chaïm Soutine“(シャイム・スーティン)らと出会い、後に親友と呼武ほど友好を深めます。
そして、彼らを通じて、説明不要な天才”Pablo Picasso“(パブロ・ピカソ)、フランスの野獣派のリーダー的画家”Henri Matisse,”(アンリ・マティス)、スペインのキュビズムの画家”Juan Gris“(フアン・グリス)と親交を深めました。
フランス社交界で”東洋の貴公子”ともてはやされた、大富豪の”薩摩治郎八“との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリ生活2日目にいち早く知り合ったチリ人オルティスに連れられて、藤田は”Pablo Picasso“(パブロ・ピカソ)のアトリエを訪れている。
そこでピカソ自身の作品や、ピカソに見せられた”Henri Rousseau“(アンリ・ルソー)の絵に大きな衝撃を受けます。
パリでは既にキュビズム、シュールレアリズム、素朴派などの新しい20世紀の絵画が登場しており、日本にいた時代に”黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画“だと教えられてきた藤田は、絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。
藤田は自身の著書で
”家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました”と語っている。
第一次世界大戦
” Jeune femme assise”:1917
” La-Vie”:1917
” Cyclamens”:1917
” Children and doll”:1917
”Young Woman on a Pink Canape”:1917
1914年、悲劇的なことにパリでの生活を始めて1年後に第一次世界大戦勃発します。
日本からの送金が途絶え、生活は貧窮しました。
日本への退去命令が出ましたが、赤十字の志願看護夫をつとめたりして、藤田はパリに残ることができました。
戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったそうです。
そんな貧しい生活が2年ほど続きましたが1917年、カフェで出会ったフランス人モデル、画家の”Fernande Barrey“(フェルナンド・バレエ)とたった13日の交際後に2度目の結婚をしました。
そしてこの頃に妻になったフェルナンドが彼の才能に惚れ込み自分が絵を描くことをやめ藤田の絵を売りまわりそこで初めて藤田の絵が売れました。
1918年、ようやく第一次世界大戦が終わりました。
藤田はモンパルナスのアトリエに当時珍しかった熱湯の出るバスタブを購入して設置すると多くのモデルが藤田のこの浴槽を楽しむために藤田の部屋にやってきたそうです。
少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになっていました。
藤田は美しい女性や猫を非常に独創的なスタイルで描く画家として評価されるようになりました。
乳白色の裸婦
” Reclining Nude”:1922
この頃に、藤田は知人の恋人であった画家、モデルの”Alice Prin”(アリス・プラン)と知り合います。
彼女は、藤田の芸術のためならとヌードモデルを務めるようになりました。
1920年の秋のサロンに彼女をモデルにした最初の”裸婦”を出品。
独創した乳白色はヨーロッパ画家の思い及ばぬデリケートな鉄線描の見事さが浮かび上がらせるすばらしい深い白地の裸体画として批評家を魅了しました。
この絵は高額で取引されました。フランスで彼を知らない人がいないほど有名になりました。
藤田の乳白色の技法について多く語ることはありませんでした。
最近の研究で、ベビーパウダーを白い画材と混ぜることで、半光沢の滑らかな質感や上品な乳白色を得ていたことがわかっています。
また、この下地の滑らかさには、布の目の細かさも影響してくるため藤田はほとんどの作品において、キャンバスを自ら手作りしている。
繊細な線描
裸婦や静物モチーフをくっきりと縁取り細く流れるような輪郭線。
画中の版画や布地の文様などの細部も、ひとつ一つを手で描き起こしています。
この秘密は日本画や水墨画でした。
面相筆と墨を使っていたのだ
油彩画用の下地の上に、水性の墨で途切れることなく柔らかな線を引くことができたのは、先ほど述べたベビーパウダーが、表面を滑らかにしていたことによる。
しかし藤田の輪郭線は、実は普通の面相筆を使うというだけでは説明が難しいのです。
裸婦の輪郭線、つまり曲線を面相筆で描いても、なかなか藤田の引いた線ほど均一の幅にはならないからです。
作品の修復の際にいくつかの作品の輪郭線を丹念に観察していると、面相筆の中に縫い針のようなものを仕込んでいたらしいことが分かってきたそうです。
輪郭線の芯に残った細い溝が証拠。
実際に針を筆に仕込んで線を引いてみるとうまくいきます。
藤田は、昼間は仲間と騒ぐ毎日だったらしいが、夜はアトリエにこもり、描く姿を誰にも見せなかったという。
夜更けの藤田のアトリエは、描くばかりでなく数々の技を発明した場所でもあったのでしょうか。
日本への帰国
フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が”お雪”(ユキ)と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。
1929年、9月、ひそかにユキとパリを離れて17年ぶりの帰国。
パリへ戻ると妻が、のち第二次世界大戦下ナチ収容所で死んだ詩人”Robert Desnos”(ロベール・デスノス)にかたむく。
1932年11月、ユキに一通の別れの手紙をのこし、カジノ座の踊り子、マドレーヌ・ルクーと中南米への旅へ出てリオデジャネイロで個展をしました。
1933年3月、アルゼンチンに入る。ブエノスアイレス、ロザリオ、コルドバで個展。さらにボリビア、ペルー、キューバを回り、1934年銀座に開店1年目の日動画廊で個展では中南米旅行中制作の60余点が、開催3日で全点売れました。
既に日本ではスターです。
堀内君代との交際はじまり12月には結婚。
1937年、日中戦争が始まります。
パリ行きの心動くが、戦時体制深まり日本に留まることになり1938年、10月、海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍。
1939年4月、突然、すでに敵国のフランス行きを決意し、君代夫人と新たな絵画の道を切り開くため横浜を離れます。
“パリ逃亡7年”を記者団に追求された藤田は、いきなりステテコ姿で踊りだし、新聞は”世界を踊り回ってきた藤田、世界一周の最もおそいレコードを作る”などと報道したそうです。
第二次世界大戦
同年9月には第二次世界大戦が勃発。
翌年、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされました。
その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、数々の戦争画の製作を手掛けましたた。
再びフランスへ
藤田がフランスに戻った時には、既にたくさんの親友画家たちはこの世を去るか亡命していました。
フランスメディアからも”亡霊”呼ばわりされるという様だったが、その後もいくつもの作品を描き続けました。
そんな中、ピカソとの交友は晩年まで続いたそうです。
1955年に日本国籍を抹消しフランス国籍を取得。
1959年にはノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、シャンパン”マム”の社主のルネ・ラルーと、”テタンジェ”のフランソワ・テタンジェか”レオナール“と名付けてもらいました。
それから彼は”レオナール・フジタ”となりました。
またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた”フジタ礼拝堂”の設計と内装のデザインを行いました。
1968年1月29日にガンにより亡くなった彼の遺体は”フジタ礼拝堂”に埋葬されました。
自画像の変化
1910年:自画像(東京美術学校卒業制作)
1921年:自画像(渡仏後の貧しい時代の作品)
1926年:自画像(乳白色を独創し有名になった時代)
1929年:自画像
1936年:自画像(日本帰国時代)
まとめ
幼少期から絵に触れ合い才能はあったもののかなり苦しい生活や判断をアートに対する追求心と愛で乗り越えてきた彼は戦争も経験し波乱万丈の人生であったことは間違い無いと思います。
しかしこうして我々の時代にも藤田嗣治(レナール・フジタ)の作品は生き続けています。
日本の宝であり偉人であることは間違い無いでしょう。