ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの生涯 何が凄い?”Vincent  van Gogh”【炎の人】

Vincent _van_Gogh_ヴィンセント_ヴァン_ゴッホArt〜アート〜

今日、3/30は皆さん作品”ひまわり”などで有名な”Vincent  van Gogh”(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)の誕生日です。

なので今日は画家”Vincent  van Gogh”(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)の歴史と作品を見ていこうと思います。

どんな生涯を過ごしたのか?何が凄いの?

彼は後期印象派運動の中心人物で、西洋美術史において最も有名で影響力のある芸術家の1人です!

そんな彼の生い立ちから何がすごいのか、探っていきたいと思います。

 

“Vincent  van Gogh”(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)

Vincent _van_Gogh_ヴィンセント_ヴァン_ゴッホ

名前          ”Vincent  van Gogh”(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ)

出身          オランダ ズンデルト

生年月日  1853/3/30 – 1890/7/29

 

生い立ち

Vincent _van_Gogh_ヴィンセント_ヴァン_ゴッホ

ゴッホは1853年に牧師の家に生まれました。

祖父と父は牧師。

男3人女3人の6人兄弟の長男で、4つ年下の弟テオドルス”テオ”と特に仲が良かった。

ゴッホは少年時代から思い込みの激しい性格だったそうです。

1869年彼は当時16歳の時、美術商グーピル商会の共同経営者であった伯父の気遣いもあり就職。

ハーグ支店で画商として働き始めた。

情熱的な仕事姿が評価され、20歳の時にロンドン支店にへ、弟テオもブリュッセル支店に就職した。

ロンドンに移動して間もなく彼は下宿先の娘ウルスラに恋をしてしまうが既婚者であったため失恋。

1875年当時22歳の彼は、失恋から立ち直れず仕事への熱意を失ってしまっていた中、彼を心配した伯父がパリの本店へと配属させた。

画商という仕事を通して”Jean-François Millet”(ジャン=フランソワ・ミレー)などの作品、バルビゾン派の作品に心を惹かれていきます。

自分が好きではない絵画を購入しようとしたお客さんに

”これは買わない方がいい”

と言ったり勤務態度が問題になリ解雇されてしまいます。

それから彼は教師、伝道師などの職に就くが早々と解雇され悩みます。

彼は慈悲の心を持っており貧しい人々を救いたいと思っていました。

その心がゴッホ初期の作品には表れています。

 

画家として活動を始める:1880年

彼は伝道師として人々に光を与えることが出来なかった為、絵によって光を与えようとした。

”伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった”

芸術はヴィンセントにとって愛を訴える方法だったのでしょう。

彼はがむしゃらにデッサンをし続け技術を磨こうと努力したそうです。

気づきましたか?彼はたった10年間しか画家として活動していないんですね、そして弟のテオはそんな彼を心配し仕送りをし続けましたが彼が亡くなるまで仕送りを続けたそうです。

当初独学でひたすらスケッチしていたが、後にブリュッセルの美術学校で遠近法と解剖学(人体構造)を学ぶことにしました。

1983年には父の住むニューネンに移り住みそこで今までの集大成を作り上げました。

 

じゃがいもを食べる人々

“De Aardappeleters”(じゃがいもを食べる人々):1885年

この同年に父が急死する。彼は父に立派な姿を見せることは叶わなかった。

ニューネンを出てベルギーのアントワープに移る。

アントワープでゴッホは色彩理論の研究をはじめ、美術館で過ごす時間が多くなります。

当時のゴッホの生活は非常に貧しく、テオから仕送りされるお金のみが頼りで、それで画材を購入したり、モデルにお金を支払っていたそうです。

芸術大学にも通い3ヶ月滞在したこの街で、日本の浮世絵と出会い、その構図や色使い、力強い輪郭線に感銘を受けました。

ドローイングクラスに在籍している際ミロのヴィーナスを描く指示を受けたゴッホは農民女性の肢体不自由の裸体を描いた。

当時の教師であったユーゲン・シベルドは、ゴッホの描いたドローイングを芸術教育に対する侮辱的な行為であるとその神を引き裂いたそうです。

ゴッホは激しく怒り”あなたは若い女性がどのようなものであるかはっきりと知らない。神よ!女性は赤ちゃんを支えるためにしっかりした腰、尻、骨盤を持っている必要がある”と教師に向かって叫んだそうです。

この後、ゴッホはたった一ヶ月ほどで学校を退学して、アントワープからパリへ移ることになります。

耕す農夫の女性

耕す農夫の女性:1885年

火の付いたタバコをくわえた骸骨

火の付いたタバコをくわえた骸骨:1885年

 

後期印象派作家たちとの交流と影響

ゴッホは1886年にパリへ移り、モンマルトルの弟のアパートに転がり込み無理やりでしたが共同生活を始めます。

ゴッホ_浮世絵

The Courtesan“(高級売春婦):1887年

パリでゴッホは葛飾北斎や安藤広重の作品などをの浮世絵を数百枚も集め、1887年に渓斎英泉の浮世絵を油絵で模写した作品を制作した。

ゴッホ_浮世絵

これは雲龍打掛の”花魁”の左右反転作品をグリッドを使って拡大模写しました。

1886年ごろにはフェルナン・コルモンの画塾の同僚だったオーストラリアの画家”John Peter Russell”(ジョン・ピーター・ラッセル)の集まりなどにに参加し、”Émile Bernard”(エミール・ベルナール)や”Louis Anquetin”(ルイ・アンクタン)などのがかと出会いました。

タンギー爺さんの肖像

“Portrait of Père Tanguy”(タンギー爺さんの肖像):1887年

画材屋のタンギー爺さんの店でもたくさんの芸術家たちと知り合います。

当時のパリ画壇は印象派の大ブーム。

そんな中”新印象派”と呼ばれる一派が台頭してきた時期”後期印象派”が盛り上がってくる時代でもありました。

”Georges Seurat”(ジョルジュ・スーラ)などの画家の様々な絵画から影響を受け彼の暗い絵は明るい色調の作品へと大きく変わっていきました。

パリでの生活は刺激に満ちていたがゴッホはアルコールに手を出し、弟テオは兄との生活を負担に感じ、喧嘩が絶えなくなります。

ゴッホは北西郊外にあるアスニエールへ移ることになりました。

ゴッホはそこで”Paul Victor Jules Signac”(ポール・シニャック)を知り、点描画法を彼の作品にに導入しはじめました。

Vincent _van_Gogh_ヴィンセント_ヴァン_ゴッホ

 

アニエールにいるあいだ、ゴッホは公園、レストラン、セーヌ川などの風景画をおもに描きました。

“アニエールのセーヌ川を横切る橋”が代表的作品である。

1887年、弟テオとゴッホはパリにやってきた画家とも”Paul Gauguin”(ポール・ゴーギャン)と親交を深めました。

そして彼はアルコール依存症やニコチン中毒から逃れるため、1882年にアルルへ移ることにしました。

 

アルルの黄色い家

暖かいアルルに到着したヴィンセントはすぐに同地を気に入り、麦畑や花が咲き乱れる果樹園、跳ね橋を好んで描きました。

ゴッホ_黄色い家

彼はアルル中心街に1階をアトリエに整備した”黄色い家”を借りました。

この家を芸術家の集まる家にしようと考え、パリの画家仲間十数人に手紙を送りました。

Vincent _van_Gogh_ヴィンセント_ヴァン_ゴッホ

特に”Paul Gauguin”(ポール・ゴーギャン)には友情の証として”坊主としての自画像”を贈り、新しい芸術を一緒に目指そうと熱心に誘いました。

ゴーギャンはお尋ね者ジャン・バルジャンになぞらえた”自画像”“我が友ヴィンセントへ”とサインを入れてゴッホに贈り快く受け入れました。

ゴッホ_ひまわり ゴッホ_ひまわり

 

ゴッホはとても喜びゴーギャンや弟のテオがいつきてもいいようにと装飾の”ひまわり”の連作を制作した。

“ひまわり”は12作品あったらしく十二使徒を表しひまわり1本1本は芸術家たちを表していたそうです。

アルルの女・ジヌー夫人

アルルの女・ジヌー夫人:1888(ゴッホ作)

 

ゴッホ_ゴーギャン

夜のカフェ:1888(ゴーギャン作)

共同生活がスタートし仲良く暮らしていたが二人はあまりにも個性が強く、画風や芸術観の違いもあって意見の衝突が増えました。

ゴッホはゴーギャンがアルルを去るのではないかと不安に脅えアブサンという強い酒に逃げるようになります。

そして共同生活9週目、決定的な事件が起きる。

この日、テオに”ゴーギャンはこの素晴らしいアルルにも、僕らの小さな黄色い家にも、そしてとりわけ僕自身にも、少し嫌気が差したんだと思う”と手紙を書いた。

ゴッホは、左耳の下部を切り取り、止血後に大きなベレー帽をかぶって馴染みの娼婦に届けるという奇怪な行動に出た。

“耳切り”はゴーギャンを引き止めるため同情を買おうとしたとも、ゴーギャンから”自画像の耳の形がおかしい”と指摘され怒って切ったとも言われている。

ゴッホ_自画像

自画像:1889年

ゴッホ自身は耳を切り落としたことに関して記憶がなく、不安が原因で急性的な幻聴を伴うなど精神障害を患ったと見られている。医者の診断によれば急性精神錯乱だという。

その後ゴーギャンはアルルを去り、二度とゴッホに会うことはなかったが、手紙でやり取りはしていたという。

ゴッホはサン・ポール・ド・マウソロス病院に入院することになった。

Vincent _van_Gogh_ヴィンセント_ヴァン_ゴッホ

星月夜:1889年

彼は発作の合間を縫ってしか絵を描けなかったが、まさにこの時期に、”星月夜””糸杉のある麦畑””アイリス””刈り取りをする人のいる麦畑”など、うねるようなタッチの数々の名画が生まれ、画家としての創作期のピークを迎えます。

花咲くアーモンドの枝_ゴッホ

”花咲くアーモンドの枝”

弟テオの結婚と出産を喜び絵も描きました。

カラスのいる麦畑_ゴッホ

退院し、夜行列車で新たな静養地、パリ北西部のオーヴェールへ。

画家兼精神科医のポール・ガシェ(当時62歳)がいることから彼のもとでの療養を勧めてもらった。

退院後には遺作とされる”カラスのいる麦畑”を完成させた。

ゴッホはオーヴェール城裏手の麦畑でピストル自殺を試み腹を撃ったが、急所を逸れて死ぬことすら上手く行かなかった。

宿に戻って苦しんでいるところを家主が見つけガシェが呼ばれた。

ガシェが”大丈夫、助かる”と励ますと”それならもう一度撃たねばならない”とゴッホ。

弟テオの住所を言おうとしないので、ガシェはテオの職場に連絡をとったため弟は翌朝まで事件を知らなかった。

弟テオが駆けつけたが意識が朦朧としておりそのまま息を引き取った。

 

ゴーギャンとゴッホ

弟テオからヴィンセントの死を知らされたゴーギャンはすぐに追悼の手紙を書いた。

“痛ましい知らせを受け取り、深い悲しみに沈んでいます。このようなときに、月並みなお悔やみの言葉をかけるつもりはありません。あなたもご承知のように、彼は誠実な友人でした。そして私たちの時代における数少ない本当の芸術家でした。作品の中に彼はずっと生き続けることでしょう。彼がいつも“岩はいずれ砕けるが言葉は残る”と言っていたように。 私もこの眼と心で、作品の中の彼に会うつもりです”

と。

黄色いキリストのある自画像

”黄色いキリストのある自画像”:1889年

アルルを去ったゴーギャンはすぐに”黄色いキリストのある自画像”を描いていた。

ひまわりなどの黄色い色彩の作品が多かったゴッホ。

自分の顔を中央に、隣りにキリストの受難を描き、芸術の為に殉教も辞さない覚悟を示した。

 

ゴーギャン_ひまわり

晩年にゴーギャンが描いた”いすの上のひまわり”:1901年

ゴッホの死から11年。ひまわり種を取り寄せ自分で植え、ゴーギャンの筆による”いすの上のひまわり”が完成した。

アルルでゴッホがゴーギャンのために用意してくれた椅子とよく似た肘掛け椅子の上にヒマワリを乗せて描き、ゴッホ風に署名した。

ゴーギャンは胸の奥底に、ずっと深い友情を抱いていました。(感動)

 

 

ゴッホは亡くなるまでの10年間で素描約1030点、油彩約860点、水彩約150点とたくさんの作品を残しています。

ゴッホの絵は不安や喜び、悲しみ孤独などの感情が作品にダイレクトに反映されている様から”情熱の画家””炎の人”と呼ばれたりもしています。

芸術は好みですがゴッホを理解してくれる方が増えると彼も本意ですね!