カニエウエストって何が凄い?!前編
常に音楽、ファッション、政治ニュースを騒がせる皆さんご存知”Kanye West”(カニエ・ウエスト)。
知っていてもなんで凄いのか?意外と知らない方は多いのでは無いでしょうか??
彼は数々の偉業や天才的発想から革新を起こしており、音楽、ファッション、政治などに多大な影響を与えています。
そんな彼、”Kanye West”(カニエ・ウエスト)を紹介していきます。
Kanye Westについて
名前 Kanye Omari West カニエウエスト
出身 Atlanta アトランタ(アメリカ合衆国)
生年月日 1977/6/8
Kanye Westソロデビューまでの道のり
1977年に写真ジャーナリストの父と英語教授の母の間に生まれたカニエ・ウェストは、アメリカはジョージア州アトランタで誕生しました。
両親の離婚で母子家庭になりシカゴへ移住し、10歳の頃には南京に移住するなど環境の変化はありながらもすくすく成長。
詩(リリック)への執着から音楽業界へ興味が出てきます。
母の理解と協力を得て、彼は音楽制作に没頭しプロデューサーとしてローカルなアーティストに楽曲提供をすることになります。
そのときには彼の革新的音楽感性であるソウルボーカルをサンプリングするスタイルを確立させていた。
多忙を極める中シカゴの美大に進み絵画を勉強するも音楽活動と勉学の両立に悩んだカニエは20歳で大学を中退しました。芸術的感性も兼ね備えていたのでしょうか。のちにファッション業界にまで影響を与えることは不思議ではありませんね!
彼はラップクルーを結成したりと数々の活動をするもなかなか結果が残せない状況が続くいていました。
Jay Z(ジェイZ)との出会い
そんな時、カニエの才能にいち早く目をつけたのが皆さんご存知あのBeyonce(ビヨンセ)の夫でありアメリカを代表するアーティストの”Jay-Z”(ジェイZ)でした。
カニエは音楽プロデューサーとして、”Jay-Z”(ジェイZ)のレーベル、”Roc-a-Fella Records”(ロッカフェラ・レコード)と契約を交わし、2001年ジャクソン5の大ネタ“I Want You Back”を大胆にサンプリングした衝撃的な楽曲“Izzo (H.O.V.A.)”をプロデュースし全米8位のヒットを記録する。
その後のJay-Zの音楽性を決定づけた傑作アルバム『Blueprint』数曲を手掛け、天才プロデューサーの仲間入りを果たしました。
彼は数々の有名アーティストたちに楽曲提供し、”Ludacris”(リュダクリス)の “Stand Up feat. Shawnna”(スタンド・アップ)は全米1位を記録し、”Alicia Keys”(アリシア・キーズ)の”You Don’t Know My Name”(ユー ・ドント・ノウ・マイ・ネーム はが全米3位を記録と売れっ子プロデューサーとなった彼だが、2002年スタジオからの帰り道、居眠り運転による事故で口の中にチューブ(”Wire”ワイヤー)を入れなくてはいけなくなった大怪我を負ってしまう。事故後クリスチャンになり、神によって助けられたと自身がコメントしている。
生きる喜びを見出し彼はもう一つの野望が、、、
プロデューサーからラッパーへ
50セントといったギャングスタ・ラッパー全盛の当時、そのキャラクターから、カニエはソロのラッパーとしてレーベル契約を果たせなかった。
そんな彼は、2004年に”Jay-Z”(ジェイZ)の協力もありながら”Roc-a-Fella Records”(ロッカフェラ・レコード)で初めてのアルバム”Collage Drop Out”(カレッジ・ドロップアウト)をリリースする。
このアルバムの中に”Through The Wire”という曲があるがこれは”Chaka Khan”(チャカカーン)の”Through The Fire”をサンプリングし自身の事故の経験でワイヤー(Wire)とファイヤー(Fire)をかけたかなりかっこいい僕の大好きな曲もありました。笑
この”Collage Drop Out”(カレッジ・ドロップアウト)はリリース日の一ヶ月前にリークしてしまったことから、カニエはアルバムの見直しと改訂を重ね、何度かの発売延期を経てようやく2004年にリリース。
この時から完璧主義ぶりを発揮しており、その結果このアルバムで全米2位の成績を誇り、グラミー賞を3部門受賞する大成功をおさめました。
同年、”Def Jam Recordings”(デフ・ジャム・レコード)の傘下に自身のレーベル”Good Music”(グッド・ミュージック)を創設 しました。
この頃から彼のサンプリングスタイルを真似たトラックメイカーが徐々に増え、自身のセカンドアルバム制作に向け新しい音を探し求めます。
そしてストリングスをはじめとした生楽器を導入し、2005年にセカンドアルバム”Late Registration”(レイト・レジストレーション)をリリースしました。
発売前月、彼は”ブッシュ大統領は、黒人への配慮は何も考えていない。”とコメントしたりと強気な発言で注目を集めるようにもなっていきました。
それらの言動も自信の表れからなのか、セカンドアルバムは全米1位を記録し、カニエはラッパーとしても成功を掴み取りました。
その後、シンセ・サウンドを取り入れ80年代のエレクトロ・ミュージックを吸収した彼は、2007年にフランスのハウスディスコ系のトップアーティストである”Daft Punk“(ダフト・パンク)とコラボレーションした“Stronger”を収録したサードアルバム”GURADUATION”(グラデュエーション)をリリース。このアルバムのイラストは世界のポップアートを牽引する日本人美術家の”村上隆”が手掛けている。
50セントとアルバムの発売日がかぶるも、圧倒的な差をつけてカニエが米英で1位を飾りヒップホップ界のトレンドを変えたことを証明しました。ここまでが前編です。意外と知らないことがたくさんあったのでは無いでしょうか?
後編ではカニエの怒涛のカリスマ性が世に出まくります。ぜひお楽しみに!